先日、葬儀のため東京へ行ってきました。雪国越後と違って、晴れ渡る青空の関東は別世界でした。こんなに天気が違うんじゃ人間の気質や考え方も違うのももっともだと感じました。
東京の葬儀屋さんと打ち合わせをしている中で、「所変われば・・・」で、私たちと違うことがたくさんあって戸惑いました。その中で、私が最も違和感を覚えたのは、「先生」と呼ばれたことでした。教師や医師、代議士などは先生でしょうが、坊さんははたして「先生」なのでしょうか。火葬場の係員からも先生と呼ばれました。
「皆さんはどうして私を先生と呼ぶのですか」と葬儀屋さんに聞いてみました。
「呼んではいけませんか?」
「いやいや、坊主が先生と呼ばれるなんて思っても見ませんでしたので不思議な感覚です。」
「では、ご当地ではどのように呼ばれるのですか」
「『和尚さん』とか『ご住職さん』とか『お寺さま』とかですね。曹洞宗では『方丈さま』ですし真宗では『ご院主さま』とか・・・・」
「そうですか。私どもは普段からそうお呼びしているものですから考えたこともなかったですけれど・・・。住職なのか副住職なのか、和尚さんなのか小僧さんなのか、間違うと失礼なので『先生』なのでしょうかね。」
どうも解せませんでした。
『郷に入っては郷に従え』ですから、言われるままにしてきましたが、どうもしっくりいきません。
写真は、12月25日の本堂前です。正月は本堂から出入りできないでしょうね。
12月2日。お寒うございます。師走に入って寒波が到来しています。今まで暖かい日が多かったような気がしますが、昨日と比べて10℃も下がった今日は、寒さがこたえます。また風も強く、時おりアラレ交じりの雨が打ち付けています。
写真は今日の11時頃の本堂前です。屋根の下は白くなっています。「いよいよ来たな」という感じです。
寒い日の朝課は、プッツン!しないように気をつけなければなりませんね。毎朝5時半から6時45分まで朝課を勤めていますが、本堂は寒いです。地蔵堂の方から隙間風がピュウーと吹き込んできます。
朝課を始めるとすぐの頃合に、新聞屋さんが配達に来ます。まだ真っ暗なので懐中電灯の光が彼の到着を知らせてくれます。たまに私がゆっくりしていると、彼の方が早く来ることがあります。彼が来ないうちに木魚をたたき始めたいという密かな対抗心を燃やしています。もちろん彼は知りませんが。
以前彼に、「今日は配達が遅くなって、お経を聞くことができませんでした。」と言われたことがあるもんですから・・・・。 勝手に一人で戦っています。うーん、朝から煩悩の塊りですな。困ったもんです。
皆さん、寒さにお気をつけください。
紅葉の季節です。庫裡の寺庭のもみじが真っ赤になり見頃です。(「今月の予定」の写真)
本堂前の桜の古木の見頃はとうに過ぎ、散り終わりの様子です。例年よりも赤くなっているように感じます。
この時期の作務は、もっぱら落ち葉掃きです。写真は、今日の落ち葉です。昨日きれいに掃いたのに今日はもうこれだけ落ちました。風もなく穏やかな一日でしたのにこの分量です。掃いた後からパラパラと散っています。全部落ち終わらなければ、掃き作務も終わりはありませんね。
ある檀家さんが言われました。「雪かきと同じだ。しても後から後から降ってくるし、しなければどんどん溜まるし。」 そうですね。でも、雪は日が差せば溶けますが落ち葉は溶けません・・・。
口説いていないで、作務そのものを楽しむことが肝要でしょうか。「人間修養としての作務」などというおおげさなものでなく、作務そのものに浸かりきる、という感じでしょう。
宗門の機関紙というか広報誌である「曹洞宗報」8月号の巻頭言を紹介します。「門送の礼」という題名で、前永平寺布教部長であられた遠藤長悦老師の随想です。
『・・・(前略)・・・ 当時、町寺の小僧として働きながら学んでいた私は、盛岡市龍谷寺の和尚さまのお伴をしての外出でした。・・・暫くしていとまを告げ、三々五々帰途を辿ります。私は法衣を包んだ風呂敷を背負って、師・馨文和尚さまのうしろに従いました。ふと、名残惜しくなってお寺の方を振り返りました。すると!山門に方丈老師の姿がありました。かなりの距離が隔たっているのに、こちらへ合掌し、且つ袖を振ってまでも見送っておられたのです。「長悦や、これを門送の礼と言うのだよ」。馨文和尚さまが教えてくださいました。少年時に見聞した、この大切な思い出を忘れることはありません。
古来、禅家では門送の儀を重んじます。来客を丁寧に迎え、要件を果たせば展待し、辞去の時刻には、長老尊僧を送る法があります。大衆雲衲が山門の両側に分立し、賓客が通る際には合掌問訊して敬礼するのです。 ・・・・(後略)・・・・』
私も家内も、お客様がお帰りになる際には、駐車場まで出向いて、お客様の車が出るまで見送るように心がけています。婿さんである上座さんも同じようにしてくれています。これからもそうし続けたいと思っています。
檀家さんのお宅に出向いた際に、門送の礼を受けることもたびたびあります。特にあるお宅の奥様は、玄関から私と一緒に出て、車のところまで行き、私が車を出した後もずっと見送ってくださいます。車のルームミラーに道路に立っていつまでも見送ってくださる姿が映っています。恐縮するやらありがたいやら。
写真は、先日の両祖忌での一コマ。両班が開いて一列に並び、これから大衆九拝をするのです。(本文とは関係ありませんでしたね。)
9月23日は彼岸の中日。彼岸会の法要を行いました。東堂様と私と智玄上座さんと三人でお勤めをしました。三世代そろってのお勤めはなかなかいいもんですね。お参りいただいた方にも好評だったのではないかと思います。
彼岸法要の後の法話はこんなお話をしました。
今日は彼岸の中日。前三日、後ろ三日、計一週間が彼岸の期間です。彼岸というのは、彼方の岸、つまり仏様のいる極楽のことです。それに対してこちら側の岸を此岸(しがん)と言いまして、私たちの住む世界で、悩みや苦しみや煩悩の多い世界のことです。私たちは此岸から彼岸へと渡りたいと願うのですが、彼岸に渡るには六つの船があり、これを六波羅蜜と言います。六つの教えと言ってもいいでしょう。一つには「布施」。他人に施しをすることです。修証義に「布施というは貪らざるなり」とあります。二つには「持戒(じかい)」。仏の戒律を守り行いを反省することです。三つには「忍辱(にんにく)」。不平不満を言わず耐え忍ぶことです。四つには「精進(しょうじん)」。精進努力することです。仕事や自分の役割に精励することです。五つには「禅定(ぜんじょう)」。心を平らかにして安定させることです。六つには「智慧(ちえ)」。真実を見る正しい智慧を働かせることです。
彼岸明けまでもう少しありますが、皆さんはどの船に乗りますか。愚痴をこぼすことが多くなったから少しは慎もうとか、何でも独り占めしないでほかの人にも分けてあげようとか、何か一つでもいいので実行してみましょう。
法要後、家内に「今日のお話はよかったよ」とほめられました。「内容もよかったし、時間も短かったし」とのこと。言いたいことを短くスパッとがいいのですね。(ん、このブログも同じですね。今日は長かったかな)
写真は彼岸花。忘れずにこの日に咲くのですね。