宗門の機関紙というか広報誌である「曹洞宗報」8月号の巻頭言を紹介します。「門送の礼」という題名で、前永平寺布教部長であられた遠藤長悦老師の随想です。
『・・・(前略)・・・ 当時、町寺の小僧として働きながら学んでいた私は、盛岡市龍谷寺の和尚さまのお伴をしての外出でした。・・・暫くしていとまを告げ、三々五々帰途を辿ります。私は法衣を包んだ風呂敷を背負って、師・馨文和尚さまのうしろに従いました。ふと、名残惜しくなってお寺の方を振り返りました。すると!山門に方丈老師の姿がありました。かなりの距離が隔たっているのに、こちらへ合掌し、且つ袖を振ってまでも見送っておられたのです。「長悦や、これを門送の礼と言うのだよ」。馨文和尚さまが教えてくださいました。少年時に見聞した、この大切な思い出を忘れることはありません。
古来、禅家では門送の儀を重んじます。来客を丁寧に迎え、要件を果たせば展待し、辞去の時刻には、長老尊僧を送る法があります。大衆雲衲が山門の両側に分立し、賓客が通る際には合掌問訊して敬礼するのです。 ・・・・(後略)・・・・』
私も家内も、お客様がお帰りになる際には、駐車場まで出向いて、お客様の車が出るまで見送るように心がけています。婿さんである上座さんも同じようにしてくれています。これからもそうし続けたいと思っています。
檀家さんのお宅に出向いた際に、門送の礼を受けることもたびたびあります。特にあるお宅の奥様は、玄関から私と一緒に出て、車のところまで行き、私が車を出した後もずっと見送ってくださいます。車のルームミラーに道路に立っていつまでも見送ってくださる姿が映っています。恐縮するやらありがたいやら。
写真は、先日の両祖忌での一コマ。両班が開いて一列に並び、これから大衆九拝をするのです。(本文とは関係ありませんでしたね。)
9月23日は彼岸の中日。彼岸会の法要を行いました。東堂様と私と智玄上座さんと三人でお勤めをしました。三世代そろってのお勤めはなかなかいいもんですね。お参りいただいた方にも好評だったのではないかと思います。
彼岸法要の後の法話はこんなお話をしました。
今日は彼岸の中日。前三日、後ろ三日、計一週間が彼岸の期間です。彼岸というのは、彼方の岸、つまり仏様のいる極楽のことです。それに対してこちら側の岸を此岸(しがん)と言いまして、私たちの住む世界で、悩みや苦しみや煩悩の多い世界のことです。私たちは此岸から彼岸へと渡りたいと願うのですが、彼岸に渡るには六つの船があり、これを六波羅蜜と言います。六つの教えと言ってもいいでしょう。一つには「布施」。他人に施しをすることです。修証義に「布施というは貪らざるなり」とあります。二つには「持戒(じかい)」。仏の戒律を守り行いを反省することです。三つには「忍辱(にんにく)」。不平不満を言わず耐え忍ぶことです。四つには「精進(しょうじん)」。精進努力することです。仕事や自分の役割に精励することです。五つには「禅定(ぜんじょう)」。心を平らかにして安定させることです。六つには「智慧(ちえ)」。真実を見る正しい智慧を働かせることです。
彼岸明けまでもう少しありますが、皆さんはどの船に乗りますか。愚痴をこぼすことが多くなったから少しは慎もうとか、何でも独り占めしないでほかの人にも分けてあげようとか、何か一つでもいいので実行してみましょう。
法要後、家内に「今日のお話はよかったよ」とほめられました。「内容もよかったし、時間も短かったし」とのこと。言いたいことを短くスパッとがいいのですね。(ん、このブログも同じですね。今日は長かったかな)
写真は彼岸花。忘れずにこの日に咲くのですね。
9月11、12日 魚沼市龍谷院様で宗務所主催の現職研修会があり、私も行ってきました。一日目は「四大綱領を学ぶ(続編)」、「曹洞宗の人権学習」の講義を受け、二日目は、呉 定明老師(阿賀町正壽寺住職)の「基礎住持学?塔婆の書き方」でした。いずれの講義からも学ぶべきことが多くとても勉強になりました。特に「塔婆の書き方」は単なるハウツー物でなく、塔婆の意義や由来、変遷などのお話もあり、呉老師の懐の広さや話題の引出しの多さに感銘を受けました。
タイトルの「お寺さんでも勉強しなきゃだめなんかね。」とは、研修会当日、駐車場から会場まで歩いているときに、近所のご老人から掛けられた言葉です。
ご老人「(お寺さん方がたくさん歩いているので不思議に思ったのでしょう)今日は何かあるのかね。」
私「ええ、勉強会なんですよ。(研修会というよりは勉強会の方がわかってもらえるかと思いまして)」
ご老人「お寺さんでも勉強しなきゃだめなんかね。」
私「そうなんですよ。知らないこともいっぱいありましてね。」 と。
僧侶はもう勉強する必要がないほど「できた人物」であるはずだと思われたのでしょうか。だとしたら、それは間違った認識です。日々勉強、日々修行ですから。
尤も、そのように振る舞っている僧侶がいるのだとしたら、それは残念なことです。研修会には70歳を超えた方丈さんもおいででした。写真にあるように、講師先生に質問されているのは会場の龍谷院の東堂様です。
写真は、呉老師の講義の様子です。それにしても曹洞宗の坊さんはツルツル頭ばっかりですなあ。
先日、教区集会と称して、教区の方丈さん方と会議兼旅行で万座温泉に行ってきました。天気もまずまずで、次期教区長も決まり、良いバス旅行でした。
お話したいのは、旅行の最後、無事帰ってきてバスから降りるときのことです。忘れ物の無きようにと荷物を点検して降りました。座席の前のアミ袋にごみをそのまま残して降りられた方が数名おられました。私は運転手さんが後で片付けてくれるのだろうとそのまま降りてしまいました。しばらくして振り返ると、私の後から降りた若い方丈さんの手にその残されたごみが握られていて、さも自分の持ち物のようにさりげなく自分のかばんにしまい込まれたのです。運転手に渡すわけでもなく、どなたのですかと聞くわけでもないのです。この光景を目にしたのは、たぶん私だけであっただろうと思いますが、私は彼を立派だなあと思うと同時になんだか自分が恥ずかしくなってしまいました。
「励みて積めよ善根を」とは無常御和讃の一節ですが、善根を積むとき、私なら気負って偉いだろと言わんばかりになるのに、彼のさりげない積善に感服でした。
写真は、志賀草津ルートの横手山頂から望む風景です。
8月25日見附市アルカディアで、宗務所主催で峨山韶碩禅師(総持寺二祖)650回大遠忌の予修法要が行われました。ステージを本堂大間に見立て、壇上に本尊様を安置し、管内の教区長老師が両班をお勤めでした。私のような一般寺院の坊主は客席での参詣者でありました。法要を一般参詣者と同じ目線で見られたのは発見が大きかったです。
法要は、出班焼香という宗門最高の儀式でした。10月の両祖忌の正当法要もこの出班焼香です。導師18拝の恩義です。私にとってもいい予修でした。
教区の若手僧侶が活躍していました。うれしいことです。
法要後の講演も峨山禅師の理解を深められてよかったです。
ちなみに、写真の正面壁の紋は、右が永平寺の笹竜胆、左が總持寺の五七の桐です。