松尾与十郎は、私財を投げ打って五十嵐川の護岸と治水に尽力した偉人です。
与十郎の墓は本堂の裏山の中腹にあります。墓は大正14年10月に四日町水害豫防組合によって建立され、墓の碑名は「榮松院正山良信居士墓」、揮毫は「大陽眞鑑禅師総持石禅書」とあります。石禅和尚は雲洞庵新井石龍禅師の師匠であり、揮毫から当時は大本山総持寺の住持であったことがわかります。松尾家の菩提寺は光照寺で、松尾家の墓は与十郎の墓と兼ねています。与十郎のご子息は現在東京におられますが、年に数度、必ず墓参りに来山されています。
与十郎の偉業については、様々な書物に紹介されています。三条市内小学校の社会科副読本「さんじょうの人物〜三条の歴史を開いた50人〜」には次のように記載されています。
松尾与十郎は天保3年(1832)片口村(三条市片口)の名主の家に生まれました。そのころ、五十嵐川の南側(左岸)には堤防がなく、つくることも許されず、梅雨の時期などは、大水が出るといつも土地が水びたしになり、新保や四日町、曲渕、月岡などは大変困っていました。江戸時代が終わり、明治になってから与十郎は新潟県の役人にたびたび堤防をつくることを頼みに行きました。明治5年(1872)に大洪水があり、広い土地が水びたしになり、田畑の収穫ができなくなりました。与十郎は強い決意で県庁に行き、願いを重ねました。ようやく明治8年(1875)に、当時の楠本県令(県知事)が三条のようすを見にきました。そして、堤防をつくることを反対していた五十嵐川の北側(右岸)の人たちを説得して、南側(左岸)の堤防をつくる許可を出しました。与十郎は県から補助金がでなかったので、自分の財産を使って、地域の人びとと堤防をつくりはじめました。こうして明治8年11月からつくりはじめた月岡から本成寺までの堤防が、明治9年9月に完成しました。しかし、まだ高さや幅が足りません。再び願いを出して許可をとって工事をはじめ、明治10年(1877)8月に完成しました。このときは、県から工事費の31パーセントの補助金を受けることができました。与十郎はこのほか、月岡からまっすぐの排水路を新通川につなげ、また、四日町から五明までの道路をつくるなどの仕事をしました。
こうして自分の財産のすべてを、堤防や道路の工事にあて、地域のために働いた与十郎は、明治19年(1886)3月15日、55歳で亡くなりました。与十郎をたたえた石碑「新堤碑」と銅像は四日町の日吉神社にあります。墓は、矢田の光照寺にあります。
与十郎は若いときから俳句を趣味としていて、安政6年(1859)28歳のときに句会を開きました。句会とは俳句のコンクールのことで、越後各地から多くの句が寄せられ、その中から選ばれた句が大きな額に書かれ、翌年1月に下大浦の升箕神社に奉納されました。今でも神社で大切に保存されています。
(出典:編集 さんじょう人物読本編集委員会、発行 三条市教育委員会、制作 株式会社 野島出版)
(転載許可済)
小学校の児童向けですのでとても平易でわかりやすく書いてあります。なお、石碑「新堤碑」と銅像は平成16年の大水害の復旧工事に伴い五十嵐川水害復興記念公園に移転されています。
また、四日町小学校の玄関には、与十郎の大きな肖像画と偉業の説明文の額が掲げられています。