光照寺のおときはおいしい! 断言します。
大きな釜で多人数分をつくるからおいしくなるのは当然なのですが、つくり手の創作意欲と手間を惜しまない愛情がこもっているからなのです。メニューを考える時からして、季節の食材と色どりと分量と味付けとさまざまな要素を勝手方衆が自分たちで考え工夫してくださるのです。大根などの煮物は前日から煮込んでくださるときがあります。おいしくならないわけがないのです。
光照寺でおときをつくる法要は、春・秋の彼岸会、春・夏・秋の地蔵講、大般若会、新盆盆参の年7回です。こんなにおいしいのに参詣者が減ってきて残念です。つくり手の張合いということもありますので、ぜひ多くの方から食していただきたいです。檀家の方でなくとも結構です。おときだけ食べに来るのでも結構です。今年は、おとき付の法要は終わりました。次は来年の春彼岸会です。皆様お待ちしています。
ところで、おときを準備するのは本当に大変です。寺院の中には、おときをやめたり、出来合いの弁当をとったりするところも多いようです。光照寺はできるだけ続けていきたいと思っています。勝手の皆さん、これからもよろしくお願いします。
(写真は、11月24日の秋地蔵講でのおとき。紅葉したどうだんつつじがワンポイントです。)
「人生いろいろ」の島倉千代子さんがお亡くなりになられました。
人の数だけ生き方があり、死に方もあります。一人の人だけでも、喜怒哀楽、さまざまなドラマがあります。最期は「私の人生いろいろでした」ということでしょう。島倉さんのご冥福をお祈りします。合掌。
「うらをみせ、おもてをみせて、散るもみじ」
良寛和尚の辞世の句だそうです。表の顔も裏の顔もぜんぶあけっぴろげて・・・ということですが、そもそも良寛和尚には表も裏もなんにも区別はなかったのでしょうね。
この句から、潔さを感じますね。
もみじの散る時期です。潔く散るもみじですが、掃き作務は大変です。朝露や雨に濡れて掃きにくいこと掃きにくいこと。
(写真は、裏庭のもみじです。)
諸行無常、これは仏教の根本原理。万物は移り変わる、人の命もまたその通り。
衆生の命は六道の中で輪廻するといいます。
六道とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの世界のことを言います。縁あって人間道に命をいただいている私たちも、いずれお釈迦様に命をお返ししたあと、閻魔様のお裁きで六道のいずれかの世界に後生を生きるのです。そして、その六道のいずれにも地蔵尊がおられて、苦しむ衆生を救ってくださるというのが昔から信じられてきた地蔵信仰の源です。能化とは教化のことです。真理を説いて迷いを除き、正道に導くことです。ですから、「六道能化の地蔵尊」というのです。たいがいのお寺(特に禅宗、真言宗は特にそうですが)には山門近くに六地蔵尊が祀られています。当寺にも大門を上がりきったところに六地蔵の石仏があります。本堂内に木造の六地蔵尊があります。永代供養墓の六地蔵は本堂内のものを参考にして彫っていただいたものです。どうぞ、本尊様だけでなく地蔵様にも手を合わせていただければと思います。
(写真は、六地蔵尊の位牌)
永代供養墓の説明や納骨の様子、嵐南の偉人松尾与十郎のことなど更新しました。どうぞご覧ください。
「お静かに・・・」
もうかなり前のことですが、ある檀家さんから帰るときにそこのお母さんからこう言われました。びっくりしました。そんなにしゃべっていたかなとか、男のしゃべっちょ(口が軽いということ)はみっともないしなとか反省しました。
でもそうでなくて、「お静かに」とは「帰路けがや事故などで世間を騒がすことのないように気を付けてお帰りください」ということだったのです。後で知って赤面でした。
私の知る限り、「お静かに」と送り出してくださる方はこのお母さんだけです。きっと昔は多くの方が使っておられたのでしょうが・・・。
相手のことを慮っての言葉に「愛語」を感じます。いい言葉だなあと思います。と同時に気が引き締まる思いにもなります。
「お静かに」。毎日がそうでありますように。
(写真は、紅葉の大門から本堂を臨む)