大本山總持寺祖院(石川県輪島市)に「両箇の月」という名の煎餅が土産物として売られています。その中のしおりにこのように書かれています。
『修行に打ち込み月の下で坐禅を組んでいた峨山さまのそばにそっと近づき指を鳴らします。ハッと驚く峨山さま。「わかりました。迷いから覚めました。」「言ってみよ。」「仏様は全世界を照らすひとつの月。もうひとつはその慈悲の心で人びとも月のように澄んだ心をもつことができる。月は月を継いで二つとなります。私もその月のひとつ。」「よし。それでこそみ仏の光を受け継ぐことができる。」 瑩山さまは次の月の光である峨山さまに總持寺をゆだねたのでした。』
わかりにくい文章ですね。要するに、仏様の光を受けて修行する者も他に光を照らす存在になりうるということでしょうか。
瑩山さまの挨拶によって峨山さまが月になる決心ができたということでしょうね。
(写真は地蔵様コレクションより・・・湯布院で買い求めました。)
「挨拶」はもともと禅語です。お師匠様が雲水と問答し、悟りの度合いを試すことを言うのだそうです。「挨」は軽く触れる、「拶」は強く触れるという意味で、師匠が軽く声を掛け雲水の反応に対してドーンと強く打ち返す。すると雲水は触発されて悟りの度合いが一気に進むのです。
瑩山禅師(大本山総持寺開山)と峨山禅師(総持寺二祖)に「両箇の月」という話があります。
瑩山禅師:「おまえは月が二つあることをしっているかな。」・・・軽く触れる「挨」
峨山禅師:「はて、一つしか見えませんが。」
瑩山禅師:「それではまだ修行が足りぬな。」・・・強く触れる「拶」
峨山禅師はいっそう修行に打ち込み瑩山禅師の言わんとすることに気が付くのです。(その意味については次回に回します)
これが挨拶です。
現代では、「おはよう」とか「こんにちは」とかを言い交すことが挨拶と言うようになってしまいましたが、本来の意味からすると、例えば・・・
先生:「おはよう。」
学生:「あ、先生。おはようございます。」
先生:「今日は元気がいいね。何かいいことがあったようだね。」
というような会話の流れでしょうか。
でも、現実には多くが「おはよう」の交し合いだけでその先には進んでいかないようです。それでは「挨」はあるけど「拶」がない挨拶です。
「拶」を言うことは難しいです。それは、相手に関心を持っていなければできないことですから。
(写真は地蔵コレクションより「流木の上の六地蔵」)
ようやくと言いますか、遅ればせながらと言いますか、光照寺にHPができました。これを機に「和尚のミニ法話」と題してブログもはじめました。皆様、よろしくお付き合いください。
HPを持ちたいと思った直接的な理由は、永代供養墓を建立したことによるものです。広く知っていただくためには口コミが最も効果的であることは承知ですが、ネットで検索される方も多いようですので。
HPをつくるにあたって、まず悩んだのが、「誰に(どの会社に)頼むか」ということでした。もちろん私の技量では自分でつくることは無理なので誰かに頼まざるを得ません。たまたま、私の友人Nさんが立ち上げた会社がHPづくりもするという情報をキャッチしましたので、Nさんにすべてをお願いしてつくっていただきました。出来栄えにはとても満足しています。
「(自分で)何ができるかより誰を知っているかが重要だ。」「何でも自分でしようとせず、上手にできる人がいるのならその人に任せることも大事なこと。」「甘え上手な人は自立できる人。」・・・若い頃に言われた言葉を思い出します。
人に頼ることは、その人を信頼することです。頼る人と頼られる人は共にその縁を大切にして生きていくことができます。Nさんは頼りがいのある人です。(写真は永代供養墓)