和尚のミニ法話

光照寺の和尚によるミニ法話をお届けします。

和尚様和尚様2

2013/12/03

マッチが湿気る

この時期、当地方は雨降りの日々が続きます。特に今年は雨が多く、晴れ間が少ないように感じます。
朝課(朝の勤行)でお灯しを点ける時、マッチの湿気具合で天候の悪さがわかります。最近は灯明用のチャッカマンもありますが、私はマッチの方がしっくりいきます。年始の配りものもマッチですしね。月経にお伺いして、仏壇に光照寺のマッチが置いてあるとちょっとうれしいです。
話を元に戻して・・・。このところ、マッチの湿気具合がすごくて、なかなか火が点きません。特に今朝は10本擦ってようやく火が点くような状態でした。開山堂や地蔵堂のマッチが手ごわいです。
梅雨時と今頃が一年の中でいちばん湿気を感じます。
マッチも開封したては気持ち良いほどにすっと点くのですが、知らず知らずのうちに湿気を吸い込むのですね。茶菓子のせんべいもそうですね。

湿気たマッチから話をつなげるのはやや無理筋かもしれませんが・・・
正法眼蔵随聞記の中の一節を紹介します。
「古人いわく、霧の中を行けば、覚えざるに衣湿る。よき人に近づけば、覚えざるによき人となるなり。」
 (「覚えざるに」というのは、知らないうちにということです。)

(写真は今年の年始物マッチ。毎年、色を変えています。さて来年は何色かな)
 

2013/11/28

お寺のおとき

光照寺のおときはおいしい! 断言します。
大きな釜で多人数分をつくるからおいしくなるのは当然なのですが、つくり手の創作意欲と手間を惜しまない愛情がこもっているからなのです。メニューを考える時からして、季節の食材と色どりと分量と味付けとさまざまな要素を勝手方衆が自分たちで考え工夫してくださるのです。大根などの煮物は前日から煮込んでくださるときがあります。おいしくならないわけがないのです。
光照寺でおときをつくる法要は、春・秋の彼岸会、春・夏・秋の地蔵講、大般若会、新盆盆参の年7回です。こんなにおいしいのに参詣者が減ってきて残念です。つくり手の張合いということもありますので、ぜひ多くの方から食していただきたいです。檀家の方でなくとも結構です。おときだけ食べに来るのでも結構です。今年は、おとき付の法要は終わりました。次は来年の春彼岸会です。皆様お待ちしています。
ところで、おときを準備するのは本当に大変です。寺院の中には、おときをやめたり、出来合いの弁当をとったりするところも多いようです。光照寺はできるだけ続けていきたいと思っています。勝手の皆さん、これからもよろしくお願いします。

(写真は、11月24日の秋地蔵講でのおとき。紅葉したどうだんつつじがワンポイントです。)

2013/11/25

非思量とはいうものの・・・

晩秋というよりも初冬に近いこのごろの天候です。雨の日が多く、晴れ間が続きません。
先日の晴れ間に、護持会の役員さんたちから冬囲い作業をしていただきました。毎年のことですがありがいことです。雪さえ降らなければ不要な作業なのにと愚痴りたくなりますが、それもまた如常なりと考えましょう。
冬囲いが済みましたが、「さあこい冬将軍」という気にはなかなかなれません。今冬の天気予報は大雪とか。気が重くなりますが・・・
「非思量」という禅語があります。考えても決着のつかないことは考えるな。思い悩むな。考え込むなということです。

写真は、鐘楼堂の囲い風景。業者さんによる前庭の模様替え工事も併せて行っています。

2013/11/14

散るもみじ

「人生いろいろ」の島倉千代子さんがお亡くなりになられました。
人の数だけ生き方があり、死に方もあります。一人の人だけでも、喜怒哀楽、さまざまなドラマがあります。最期は「私の人生いろいろでした」ということでしょう。島倉さんのご冥福をお祈りします。合掌。


「うらをみせ、おもてをみせて、散るもみじ」
良寛和尚の辞世の句だそうです。表の顔も裏の顔もぜんぶあけっぴろげて・・・ということですが、そもそも良寛和尚には表も裏もなんにも区別はなかったのでしょうね。
この句から、潔さを感じますね。

もみじの散る時期です。潔く散るもみじですが、掃き作務は大変です。朝露や雨に濡れて掃きにくいこと掃きにくいこと。

(写真は、裏庭のもみじです。)

2013/11/06

六道能化の地蔵尊

諸行無常、これは仏教の根本原理。万物は移り変わる、人の命もまたその通り。
衆生の命は六道の中で輪廻するといいます。
六道とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの世界のことを言います。縁あって人間道に命をいただいている私たちも、いずれお釈迦様に命をお返ししたあと、閻魔様のお裁きで六道のいずれかの世界に後生を生きるのです。そして、その六道のいずれにも地蔵尊がおられて、苦しむ衆生を救ってくださるというのが昔から信じられてきた地蔵信仰の源です。能化とは教化のことです。真理を説いて迷いを除き、正道に導くことです。ですから、「六道能化の地蔵尊」というのです。たいがいのお寺(特に禅宗、真言宗は特にそうですが)には山門近くに六地蔵尊が祀られています。当寺にも大門を上がりきったところに六地蔵の石仏があります。本堂内に木造の六地蔵尊があります。永代供養墓の六地蔵は本堂内のものを参考にして彫っていただいたものです。どうぞ、本尊様だけでなく地蔵様にも手を合わせていただければと思います。
(写真は、六地蔵尊の位牌)