永代供養墓の説明や納骨の様子、嵐南の偉人松尾与十郎のことなど更新しました。どうぞご覧ください。
「お静かに・・・」
もうかなり前のことですが、ある檀家さんから帰るときにそこのお母さんからこう言われました。びっくりしました。そんなにしゃべっていたかなとか、男のしゃべっちょ(口が軽いということ)はみっともないしなとか反省しました。
でもそうでなくて、「お静かに」とは「帰路けがや事故などで世間を騒がすことのないように気を付けてお帰りください」ということだったのです。後で知って赤面でした。
私の知る限り、「お静かに」と送り出してくださる方はこのお母さんだけです。きっと昔は多くの方が使っておられたのでしょうが・・・。
相手のことを慮っての言葉に「愛語」を感じます。いい言葉だなあと思います。と同時に気が引き締まる思いにもなります。
「お静かに」。毎日がそうでありますように。
(写真は、紅葉の大門から本堂を臨む)
大本山總持寺祖院(石川県輪島市)に「両箇の月」という名の煎餅が土産物として売られています。その中のしおりにこのように書かれています。
『修行に打ち込み月の下で坐禅を組んでいた峨山さまのそばにそっと近づき指を鳴らします。ハッと驚く峨山さま。「わかりました。迷いから覚めました。」「言ってみよ。」「仏様は全世界を照らすひとつの月。もうひとつはその慈悲の心で人びとも月のように澄んだ心をもつことができる。月は月を継いで二つとなります。私もその月のひとつ。」「よし。それでこそみ仏の光を受け継ぐことができる。」 瑩山さまは次の月の光である峨山さまに總持寺をゆだねたのでした。』
わかりにくい文章ですね。要するに、仏様の光を受けて修行する者も他に光を照らす存在になりうるということでしょうか。
瑩山さまの挨拶によって峨山さまが月になる決心ができたということでしょうね。
(写真は地蔵様コレクションより・・・湯布院で買い求めました。)
「挨拶」はもともと禅語です。お師匠様が雲水と問答し、悟りの度合いを試すことを言うのだそうです。「挨」は軽く触れる、「拶」は強く触れるという意味で、師匠が軽く声を掛け雲水の反応に対してドーンと強く打ち返す。すると雲水は触発されて悟りの度合いが一気に進むのです。
瑩山禅師(大本山総持寺開山)と峨山禅師(総持寺二祖)に「両箇の月」という話があります。
瑩山禅師:「おまえは月が二つあることをしっているかな。」・・・軽く触れる「挨」
峨山禅師:「はて、一つしか見えませんが。」
瑩山禅師:「それではまだ修行が足りぬな。」・・・強く触れる「拶」
峨山禅師はいっそう修行に打ち込み瑩山禅師の言わんとすることに気が付くのです。(その意味については次回に回します)
これが挨拶です。
現代では、「おはよう」とか「こんにちは」とかを言い交すことが挨拶と言うようになってしまいましたが、本来の意味からすると、例えば・・・
先生:「おはよう。」
学生:「あ、先生。おはようございます。」
先生:「今日は元気がいいね。何かいいことがあったようだね。」
というような会話の流れでしょうか。
でも、現実には多くが「おはよう」の交し合いだけでその先には進んでいかないようです。それでは「挨」はあるけど「拶」がない挨拶です。
「拶」を言うことは難しいです。それは、相手に関心を持っていなければできないことですから。
(写真は地蔵コレクションより「流木の上の六地蔵」)