2月19日、智玄上座さんが安居修行のため、永平寺へ出発しました。威儀(いでたち姿)は、写真のように、着物とお衣を短くたくし上げ(上げ手巾と言います)、脚絆にわらじを履き、行李を首からかけ、座蒲を持ち、網代笠をかぶります。まさしく雲水そのものの姿です。朝8時の出発でしたが、檀家や近所の方々など20人ほどが見送りに来ていただきました。智玄さんも気持ちが引き締まったようでした。19日午後に門前の地蔵院に入り、上山点検などを受け、永平寺には21日に上がる予定です。彼のような入門志願者僧は6~8人ずつ組になって三、四日おきに上山していきます。彼は2番上山組です。1番上山は18日に上山したようです。
山門ではこのような光景が展開されると思います。木版を3打した後、係りの僧が出てくるまでかなりの時間待たされます。ようやく出てきた僧に「この永平寺に何をしに来た!」と問われ、「修行です」と応答すると「修行とは何か」と畳み掛けられます。彼は何と応えるのでしょうね。それらしいことを述べても「その修業は永平寺でなくてもできるだろ。さっさと帰って師寮寺で修行しろ。」と一喝されます。それをなんとか食い下がって入門を請うわけです。これが第一の関門。山内に入ると旦過寮(たんがりょう)で一週間缶詰状態で朝から晩まで坐を組まされ、生活の基本をみっちりと叩き込まれます。これが第二の関門。旦過寮を出て衆寮に入り、鐘洒という鳴らしものの配役についてからも第三、第四の関門が待っています。・・・・・今頃何をしているのでしょう。がんばれ!
前々回の「正法御和讃」の続きです。「花の晨に・・・」はお釈迦様と迦葉尊者のお話しでした。
第2節の「雪の夕べに臂を断ち」についてお話しします。これは禅を中国に伝えた達磨大師とその二祖慧可(えか)禅師のお話しです。達磨大師は中国嵩山少林寺で面壁九年の坐禅修行をされておられました。そこへ慧可様が、教えを請うて弟子入りをお願いするのですが、大師は返事もせずただ坐禅をするばかりでした。大通2年(526年)12月9日、厳冬の雪の中、慧可様は自らの臂を切断し、求道の切なる思いを示されました。達磨大師はその覚悟に応えられ、正法をお伝えになられたというお話しです。
慧可様のこの覚悟がなければ、私たちはこうしてお釈迦様以来の正伝の仏法に遭うことはできなかったのです。
修行道場では、12月1日から8日まではお釈迦様の成道にちなんで坐禅三昧の接心修行をしますが、翌日の12月9日は慧可様の覚悟を自分にも置き換えて「断臂接心」を行うのです。
覚悟を示すには、内面だけの覚悟では人に伝わりません。身なりや服装を変えることが一般的です。慧可様の断臂とまではいかなくとも、頭を丸るめるとか、ひげを落とすとか、白装束をまとうとかですね。(号泣県議が頭を丸めたらしいですがどうも覚悟を示したのではなさそうですが)。当寺の智玄上座さんは永平寺上山に向けてさっぱりと浄髪しましたよ。
『花の晨(あした)に片頬笑み 雪の夕べに臂(ひじ)を断ち
代代(よよ)に伝うる道はしも 余処(よそ)に比類(たぐい)は荒磯の
波も得よせぬ高岩(たかいわ)に かきもつくべき 法(のり)ならばこそ』
正法御和讃という御詠歌の歌詞です。これは曹洞宗の宗歌でもあります。
お釈迦様以来、正しい仏法が代々の祖師方によって脈々と受け継ぎ伝えられてきた様子を詠ったものです。
「花の晨(あした)に片頬笑(かたほえ)み」とは、有名な『拈華微笑(ねんげみしょう)』の故事のことです。
ある時、お釈迦様が大勢の弟子たちを前にして、無言のうちに一本の優曇華を手に取って示されたところ、誰もみなお釈迦様の意とするところがわからず黙っていました。その中で迦葉尊者だけがその真意を理解して微笑まれたのです。お釈迦様は「私が得たところの仏教の根本真実を迦葉に伝える。」とおっしゃいました。こうして迦葉尊者はお釈迦様の代継ぎとなったのです。
「以心伝心」ということです。
正しく伝えるというのはなかなか難しいものです。言葉や文字では微妙なところまでは伝えきれないものです。
私たちは、「言ってくれなきゃわからない」とか「書き留めて残しておいて」とか言いますが、はたしてどうでしょう。
言われなくても、書かれていなくても、五官で感じ取り、自分で考えを巡らせ、本物に近づく努力をすることが大切ですね。
学問の道もそれに通ずるのではないでしょうか。ノーベル賞の大村博士も「弟子を育てる秘訣は教えすぎないことだ」とおっしゃっておられました。
「以心伝心」「不立文字」 宗門で好んで使われる言葉です。