和尚のミニ法話

光照寺の和尚によるミニ法話をお届けします。

和尚様和尚様2

2017/08/28

墓じまい

「終活」の社会現象化にともない「墓じまい」が問題というか話題になってきています。拙寺のような檀家の少ない寺でも去年から今年にかけて4件の墓じまいがありました。1件目は遠地にお住いの檀家さんが地元に霊園を求めて新しい墓を建立したいので墓を引き上げるというもの。併せて離檀となりました。子の世代になると寺との関係も薄くなってきて致し方なしです。2件目、3件目は子がおらず後継ぎがいないので、いずれ墓の守り手がいなくなるので、当寺の永代供養墓に先祖のお骨を収め、自分もいよいよの時には一緒に永代供養墓に入ろうというものです。これも適切な選択であろうと思います。というかご自身が生前のうちに懸案事項を解決してくださったのでご立派とも言えます。そして4件目は嫁に行った娘さんが実家の後始末として墓じまいをしたというものです。高齢のお母様の一人暮らしでしたが、娘さんのご主人の理解もあって、娘さんご夫婦が一切の面倒を見てくださいました。立派なお墓が自宅の敷地内にあったのですが、この機に墓じまいをして当寺の永代供養墓に納骨するというものです。この娘さんのように後の面倒を見てくれる人がいればまだよいのですが、この後どうなるのだろうと心配になるお宅もあります。
永代供養墓を建てておいてよかったと思います。いよいよの時にはお寺の供養墓に入ればよいと安心してもらえますから。
「終活」にはお墓の問題は避けて通れません。散骨や樹木葬は私は反対です。自分はどうなってもよいとおっしゃいますが、残された人、お参りをしたい人にはお墓という対象物が必要だと思うからです。

2017/08/27

「一期一会」 実行は難し

FMポートの番組「モーニングゲート」の中でDJ遠藤麻里さんが言っていました。
『年を重ねたせいか、時の経つのがとても早く感じられる。老いや死に近づいているからだろう。であるならば、「これが最後かもしれない」と考えることにしよう。食事をしていても、これが最後かもしれないと。目の前の人との会話も、これが最後かもしれないと。そうすればその時々を、相手の人を大切にしようと思う心が増すに違いない。』と。
まさしく一期一会であります。聞いていて、そうだなと深くうなづきました。私も齢を重ねて先が心配になるお年頃になりましたので、生き方そのものを「やさしさ重視」でいかなければならないなと思っていたところに、遠藤さんの言葉がピタッときて、的を得たりという感じでした。
しかし思いつきだけで一期一会を日常化することはとても困難です。放送を聞いた翌日、一周忌法要の法話でこのことをお話ししました。一期一会を心がけて生きたいものですと締めくくりましたが、次のお斎の席では全く普通通りののんべえ坊主になってしまいました。口先ばっかりで実行の伴わないダメ坊主ぶりを発揮してしまい、帰山してちょっと落ち込みました。

2017/08/25

若者の死を悼む

若い人の死去の報(告げ)が入ると実に悲しくなります。「泣き葬式」になりますし、お通夜説教で何といえばよいか考えるだけで切なくなります。せめてもの供養にと戒名はよくよく考えることにしています。ご遺族から安心していただけるような字を選び並びを考えます。
当寺の檀家さんではないのですが、昨日切ないニュースが流れました。長岡市の中学3年生の男子生徒が信濃川で遺体で発見されたのです。数日前から行方不明であったために公開捜査となり大掛かりな捜査が行われていたのです。事件性は薄いようです。何らかの要因で川に転落したようです。私は全く知らない生徒さんですが、娘がよく知っていてとても心配していたので、私も妻も気にかけていました。残念という思いと見つかってよかったという思いとが交錯しました。妻が朝課でお経を一巻あげてやってと言うので、そうだなと思い如常の朝課が終わった後、特に大悲咒をあげ、彼の名前を読み上げて供養させてもらいました。
聞くところによると彼の中学校は今日が2学期の始業式だとか。親御さんの嘆き悲しみは言うまでもなく、2学期のスタートを悲しい知らせで始めなければならない先生方はさぞ切なかろうと思います。校長先生は始業式で何とお話になるのでしょう。担任の先生はどんな顔でクラスメイトを迎えるのでしょう。
彼の死に際し、それぞれの方が追善の思いと行為を深めていっていただければと思います。そして「はかない命」に思いを巡らしていただければと思います。
南無釈迦牟尼仏 合掌。

2017/08/24

誕生日と数え年

今日は私の6?才の誕生日です。だからと言って、この年になると何ということもないのですが、それでも家族からおめでとうと言われるとうれしいものです。
私のよく聞くFMラジオ番組(FMポート モーニングゲート)でDJさんの使う言い回しが気になっていました。リスナーさんの誕生日を紹介して、「今日は〇〇さんの誕生日です。この一年良い年でありますように。」と言うのです。初めて聞いた時は、お正月のあいさつみたいだなと思い、ちょっと違和感があったのですが、よく考えてみれば、誕生日を区切りの日としてとらえれば、誕生日の前日が大晦日で、誕生日が元旦だとも言うことができるわけですから、なるほどなと感心しました。年の数え方には、「満」と「数え」がありますね。このDJさんは「満」でとらえているわけですし、私の違和感は一年は正月から始まるという「数え」の先入観からきていたわけです。
お寺の世界では年回法要などは「数え」で数えます。亡くなったその日をすでに一日目としますので、初七日は満6日目、四十九日は満48日目ということになります。私の寺の檀家さんではないのですが、亡母の7回忌の連絡が実家から来ないので法事をしないのかなと思っていたら、翌年になって7回忌の案内が来たそうです。実家のお兄さんは満7年目と思っていたそうです。
私の寺ではこのようなことのないようにと、今年法事にあたっているお宅には年始にお伝えしていますが・・・。

2017/08/23

草取りと浄髪

このところ雨降りの日が続いています。盆前は38℃なんていう日があったりして庭の池の苔が焼けて真っ赤になってしまいましたが、盆の13日の頃から雨交じりの日が多くなってきて、梅雨に逆戻りしたかのようです。私は体調を崩してしまいあまり元気がないのですが、草は元気ですね。彼らの伸びのすさまじいこと、あっという間にいたる所が草ぼーぼーです。7月の末に檀家さんからボランティアで草取り、草刈りをしてもらいきれいにしたばかりなのにと愚痴りたくなるほどです。愚痴っていても草は伸びていきますので草取りをすることになるのですが、広い境内ですので取った後から生えてくるような状態で、きりがありません。
草取り作務をしながら思いました。草取りと浄髪は同じだなと。髪の毛も剃っても剃っても後から後からと生えてくる。人間の煩悩のようなもので、その都度きれいにしていかなければなりません。浄髪は煩悩を断つ代替行為であると私はとらえています。修行道場では四九日(四と九のつく日)に必ず浄髪をします。私は四九日にこだわらずに気のついたときに浄髪をしていますが、煩悩は相変わらずです。
草との戦いはまだしばらくは続きそうです。