和尚のミニ法話

光照寺の和尚によるミニ法話をお届けします。

和尚様和尚様2

2019/07/11

「なぜ」ぼとけ

青森駅の通路に「引ぐ」と書かれていて、「引く」でなく「引ぐ」という方言表記が話題になっているそうです。
方言表記がその土地らしくて、微笑ましいとかほっこりするとかの声が上がっているのだということです。
このニュースをよく読んでみると、あえて方言で表記したとのこと。製作者側に意図があったそうです。これがそうでなくて、普段の言葉遣いが何の意図もなく、そのまま出てしまったというのならもっとほっこりしたのになあと思いました。
そういえば、当寺の本堂にある御賓頭盧尊者(おびんずるそんじゃ)の木像には、写真のような解説文がつけてあります。ここで注目は「なぜぼとけ」という表記。私の母が数十年前に書いたものなのですが、母は、何の意図もなくそうだと思い込んで書いてます。標準語でいえば「なでぼとけ」でしょうが当地では「なでる」を「なぜる」という人も多くいて母もその一人でした。
私は最初は少し恥ずかしかったのですが、参詣者のだれからの指摘もなかったものですから、そのように受け止められているのだなあと思い、直すこともせず今日までこのままです。今みると何となくほっこりします。
分かっていて掲示していますので目くじら立てて指摘しないでくださいね。

2019/07/10

越えられない壁

お檀家さんの月参りの時は、仏壇のお供え物に目がとまります。お供え物から話題が広がっていきますから。
昨日のお宅には笹団子が備えてありました。作り立てでいかにも奥さんのお手製であることがわかりました。「笹団子こしらえたんですね」と話しかけると、亡くなった息子さんの好物であったことや、自分の幼少のときの思い出や、その作る過程での苦労の様子やら、いろいろとお話が聞けて良かったです。
「笹にくっついてしまうのとそうでないのものの違いは何でしょうね。」とお聞きすると「柔らかさだね」とのこと。「今回のは柔らかすぎて笹離れが悪くあんこが飛び出てしまうようになってね。なかなか上手にはいかないものです。」「私も何十年と作っているけど、(作り方を教えてくれた)叔母のようにはいかなくてね。叔母はさすがだわ。」「この前も叔母と一緒に作ったんだけど、その時は上手にできたのに、今日一人で作ったらこの有様よ。」「免許皆伝にはまだまだだね。」
『亀の甲より年の劫』いくつになっても越えられない壁はあるもんです。

今朝のアジサイは「泉鳥(いずみどり)」
淡い青がとてもきれいです。

2019/07/09

今朝のアジサイ  十二単衣

「十二単衣(ひとえ)」 花びら(本当はガクですが)幾重にも重なっているのでついた名であろうと思います。観察してみるとアジサイの花びらは4枚が基本ですが、その1枚が4重にもなっているものがあります。つまり、4×4で16枚のも花びらが重なっているということ。さぞや頭が重かろう。
実際に十二単衣をまとったらどんな重さなのでしょうね。皇族の方々の儀式でのご様子などをTVで拝見しても、ずっしりと重そうな様子がみてとれますものね。
僧侶も重ね着ですので、お檀家さんから「暑いでしょう」と言われます。肌着、襦袢、着物(白衣)、衣と4枚着ているとそれぞれが夏物で涼しい生地であってもさすがに暑いですね。
十二単衣は遅咲きで、今が見頃です。

 

2019/07/08

増殖の第一歩

アジサイの鑑賞時期も後半戦。そろそろ来年に向けた準備も並行して行わねばなりません。
ヒメアジサイの挿し穂をたくさんつくりました。80本くらいかな。これを顆粒の鹿沼土をひきつめた浅鉢に挿していきます。2週間もすれば根が張ってきますので、鹿沼土から引き抜いて、ポット鉢に植えてやります。ヒメアジサイはごく一般的な手毬咲きの青アジサイですが、暑さにも雪にも丈夫で、早咲きですので、これを増やして裏山に植えていこうと考えています。
「死ぬまでに一度はいってみたい絶景」の秋田県雲昌寺さんは挿し芽を五・六百もつくるそうです(雑誌に書いてありました)。そこまでは遠く及びませんが、将来の「アジサイに囲まれた光照寺」を夢見ています。

 

2019/07/07

花の終わり

万物無常なのですから、花が開けばいずれ終わりもきます。手毬咲のアジサイは色が落ちてきたりしてすぐその変化がわかります。ガクアジサイは写真のように花が垂れて下を向いてくることが終わりのサインです。
このように無常という言葉には「終わり」「終焉」というイメージがつきまといますが、万物は移り変わる、ひと時も同じ状態でじっとしていない、ということが無常であるわけですから、「終わり」だけでなく「成長」もまた無常の姿であるともいえます。日々成長する若者もまた無常の体現者であります。

写真は「うたげ」の花の様子です。