能登地震から時は刻々と過ぎていますが、いまだ被害の全容はつかめぬままのようです。不明者もまだ多くおられ、何もできない私はTVの前で歯がゆい思いをしているのみです。
発生当初から祖院のことが気にかかっていました。輪島市門前町にある宗門の大本山總持寺祖院。平成19年の能登半島地震で大きな被害を受け、14年かけて修繕復興を進めて、令和3年に完全復興宣言をするとともに落慶法要が営まれた祖院です。今年は開創の太祖瑩山禅師の700回大遠忌の年に当たります。私は昨年の6月に祖院で行われた700回大遠忌予修法要に参詣するご縁をいただき、教区の護持会長さんとお参りをさせていただきました。とても美しく整えられた伽藍に感動したものです。(祖院復興に当たっては、我々末端寺院も寄進という形で協力いたしました。)
この度の様子についてYouTubeでアップされているとのことでしたので、早速見てみました。惨憺たる状況です。役寮さん、雲水さんらは無事のようですが、画面に映し出される有り様に残念で悔しい思いです。門柱が傾き浮き上がり、灯篭が倒れています。山門へと続く石畳がめくれ上がっています。塔頭の芳春院が、手指を浄める浄水舎がペシャンコです。山門から香積台に続く回廊が全壊しています。等々 太祖堂は、その内部はどうなっているのでしょう。気がかりです。
本日付けの中外日報web版では、「曹洞宗寺院は、北陸4県で全壊10ケ寺、伽藍の一部損壊は51ケ寺を数える。總持寺祖院は回廊の全壊など伽藍全体に及んだ。」とあります。石川県宗務所長屋敷老師は「17年前に戻ってしまった」と嘆いておられたそうです。
大本山永平寺はお父さん、大本山總持寺はお母さんと教えられて育ってきた私は、母の大病におろおろする仔犬のようなものです。
写真:被害を伝える日テレニュース(YouTube画面)。アナの左後ろが山門。右手に全壊の回廊、その奥に香積台が見えます。
坐禅の開始時と終了時には「左右揺身」と言いまして、体を揺らす動作をします。開始時には左右に大きく上身を数回揺らし、次第に揺れ幅を狭めて中心でピタッと止めます。身体をリラックスさせると同時に身体の中心線を決める動作です。「体をまっすぐにすれば心もまっすぐになり、行いも、言うこともまっすぐになる」これは故宮崎奕保禅師の言葉です。そのまっすぐにするための第一歩が左右揺身です。
坐禅の終わりの左右揺身は開始時とは逆で、まっすぐの体を少しずつ左右に揺らし、次第に大きく揺らして体のコリや緊張感をほどきます。仏の身から俗世の身に帰る動作と言えるかも知れません。
元旦の大地震の時、私は茶の間で客人と一杯始めたところでした。部屋中がガタガタ揺れ始めたとき、写真の花器が揺れ始めました。この花器は写真のように根元が細くなっていて安定感に欠けるので、少しの揺れで倒れること必至です。私は倒れて水浸しになり花が散乱することを覚悟しました。しかし、少しずつ揺れながら揺れ幅が大きくなり、右に左にとまるで曲芸師のようです。地震の揺れが収まるにつれて花器の揺れ幅も小さくなり、最後はピタッと止まりました。まるで花器が左右揺身しているようでした。(この様子を見ていた私は大地震の最中一体何をしていたんだとは思いますが・・・)
びっくりした出来事でした。
遅ればせながら、この度の地震によって亡くなられた方々のご冥福を深くお祈り申し上げます。また被災されました多くの方々にお見舞いを申し上げます。さらに、行方が不明な方々が一刻も早く見つかり無事救出されますよう切に祈っております。
当地方も震度5強ということで結構揺れました。当寺の被害状況は、開山堂に安置してある位牌が8柱倒れ落ちました。その内の2つは折れたり外れたりの破損が見られました。また、白壁の隅がポロポロ欠け落ちたり、食器棚の器やグラスが数枚割れました。幸いなことに、山内皆無事であります。ご心配いただいた方々、どうもありがとうございました。ご安心ください。
写真は永平寺山傘会のカレンダーです。1,2月の写真には永平寺貫主南沢道人猊下の揮毫で「万物生光輝(ばんもつこうきをしょうず)」とあります。元日の朝はこの言葉のような希望の光に満ちた朝でありましたが、夕刻にこの度のような大禍が襲ってくるとは。翌二日は海保機とJAL機の衝突という悲劇が続きました。今年はどうなってしまうんだろうか。
今の私にできることは、とりあえず国家安寧、万民安泰、天地平和・・・を朝課中に特に懇ろに願うことです。義援金には進んで協力したいと思っております。
新潟市西区の液状化による被害も甚大です。ニュースの画面に、断水の地域にあって井戸水が出るお宅が必要な方に水を分けておられました。奥様は「うちだけ普通の生活をしていたらバチがあたる。水か無くなっても(枯渇しても)他の方々と同じになるだけですから。」と涙ながらにお話しされていました。
自分が少しでも役に立てれば。何か考えてみます。
令和6年、新春を寿ぎ皆様のご多幸をお祈りいたします。
拙僧のこのブログ、今年もお付き合いください。よろしくお願いいたします。年末から定時に閲覧カウンターをチェックしています。毎日平均で50人前後の方から見ていただいているようです。ありがたいことです。この数字が更新する励みになっております。
さて、坐り納めの12月31日の坐禅会後の茶話会での話題の中から。「坐禅をしていると音に敏感になる」という話があり、鳥の音、雨の音、戸を開ける音、車の止まった音・・・・。「いろんな音があるがそれぞれの音を味わうことができるようになった」とSさん。「除夜の鐘が近所のうるさいという苦情から、昼や夕方に時間移動したり取り止めたりしているお寺があるとか」とCさん。「大梵鐘の音は気持ちが落ち着いて好きだけどねえ」とMさん。「あの音をうるさいというのだからどうなっているんだろうね」とNさん。結局は受け取る側の問題で、美音にも雑音にもなるのだということで話は一区切りつきました。「雑草と言う名の草はない」と言うのと同じで、「雑音という名の音はない」ということなのでしょう。音そのものを楽しんだり味わったりしたいものですが、その心の余裕が足りてないのでしょうね。坐禅中はその余裕を持てますよ。(足が痛くてそれどころでないという時もありますが・・・)
写真:元日の本堂正面