「挨拶」はもともと禅語です。お師匠様が雲水と問答し、悟りの度合いを試すことを言うのだそうです。「挨」は軽く触れる、「拶」は強く触れるという意味で、師匠が軽く声を掛け雲水の反応に対してドーンと強く打ち返す。すると雲水は触発されて悟りの度合いが一気に進むのです。
瑩山禅師(大本山総持寺開山)と峨山禅師(総持寺二祖)に「両箇の月」という話があります。
瑩山禅師:「おまえは月が二つあることをしっているかな。」・・・軽く触れる「挨」
峨山禅師:「はて、一つしか見えませんが。」
瑩山禅師:「それではまだ修行が足りぬな。」・・・強く触れる「拶」
峨山禅師はいっそう修行に打ち込み瑩山禅師の言わんとすることに気が付くのです。(その意味については次回に回します)
これが挨拶です。
現代では、「おはよう」とか「こんにちは」とかを言い交すことが挨拶と言うようになってしまいましたが、本来の意味からすると、例えば・・・
先生:「おはよう。」
学生:「あ、先生。おはようございます。」
先生:「今日は元気がいいね。何かいいことがあったようだね。」
というような会話の流れでしょうか。
でも、現実には多くが「おはよう」の交し合いだけでその先には進んでいかないようです。それでは「挨」はあるけど「拶」がない挨拶です。
「拶」を言うことは難しいです。それは、相手に関心を持っていなければできないことですから。
(写真は地蔵コレクションより「流木の上の六地蔵」)